立川のご紹介

立川の公園   普済寺   図書館

立川の公園

   市の北部にある玉川上水緑道は上水の流れに浴って東西に続き四季折々の自然が楽しめます。
古民家園では、昔の人々の暮らしぶりの見学を。また、栄緑地や中里緑地など、初夏の木もれ日の中を散策してみませんか。
このほか、立川駅北口から徒歩5分のファーレ立川には、109のアート作品があり、世界各地の芸術家による作品にふれることができます。
自然・歴史・文化
市の南部には、花菖蒲園から都農業試験場にかけて、東西に崖線が続ぎ、貴重な自生林や湧水が残されています。
また、柴崎町、錦町にまたがる根川緑道は水と糸緑に親しめる清流公園。歌碑や句碑なども建てられ、詩歌の道として、散策も楽しめま
す。湧水を源流とし、木道が設けられている矢川緑地は、静けさに都会の騒がしさを忘れ、心も体もリフレッシユできます。

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普済寺

 多摩川をのぞみ、八王子、日野市方面を見渡せる小高いがけの上に、立川市の名の由来、立川氏ゆかりの普済寺(同市柴崎町)はある。
寺伝によると、同寺は、南北朝時代の1353年(文和2)当時、立川一帯を治めていた豪族・立川氏が居圧していた
館の一隅に菩提寺として創建された都内でも有数の名刹だ。
一帯は、都史跡「立川氏館跡遺跡」に指定されている。
立川氏は、鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」の1238年2月の記述で、将軍が上洛する際の随将の1人、「立河兵衛尉」して登場するほど古い豪族。戦国時代には、北条氏に従い1590年に北条氏の拠点だた八王子城の落城とともに滅亡したとされる。
しかし、菩妻鏡のほか、普済寺に伝わる「八幡神社本地仏像」に「立河」と名前が刻まれているなどだけで、詳しいことは分かっていないなぞの多い一族でもある。
その立川氏の保護を受けた後、江戸時代に「江戸名所図会」に興隆ぶりが描かれた普済寺の歴史も波乱に富み、いつも順風ではなかった。「気付いた時は、本堂の屋根から炎が上がり、かわらがはじけていた」。同寺住職、弓場童典さんは、1995年4月4日のその時を振り返る。
放火と思われる不審火で、本堂や庫裏など五棟、国重要文化財「開山物外和尚座像」などの貴重な文化財も焼失した。だが皮肉にも、その火災が、普済寺の歴史解明にまたとない機会になった。その後、本堂などの再建を前に、立川市教委ぱ95年11月から発掘調査を実施。その目的は、立川氏館につながる遺構の発見だった。
寺の周りにぱ、巨大なイチョウの木がそびえる土塁跡が残っており、館跡だったということは、以前から推測できた。
しかし、その館が立川氏の館だったかという点は、寺の伝承などが主で、決め手がなかった。
調査ではまず、土塁跡の外側に幅1−4m、深さ二mの堀が見つかり、館跡である可能性がさらに高まった。
さらに、本堂や庫裏などの焼失跡約二干百平方mの発掘調査では約二千五百個におよぶ経石が江戸時代に建てられた庫裏の柱穴から出土。
墨できっちり書かれた経文に当時の僧侶の信仰の深さが垣間見られるものだった。しかし、調査では、今のところ立川氏館に直結する〃物証〃は発見されていない。課題ぱ後世に持ち越されそうだ。
ただ寺の墓地には、殺された立川氏ゆかりの人たちが葬られたと伝わる「首塚」と呼ぱれる土盛りがある。
弓場住職ぱ「明治の初期に発掘作業の途中で大けがをした人がいて、たたりだと、作業が中断した経緯があるんで
すよ」と説明してくれた。
そこに1943年に建立された「立川宮内少輔宗恒の碑」という石碑。寺伝で寺の開墓とされるが、もっと古い人との説もある人物だ。
史実はどうであれ、この寺に立川氏が脈々と伝わっていることを改めて実感した。
(読売新聞記事より)

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